今回は、現実とは?についてです。現実とはレンダリング済みで自分の目の前に出てきている現象のこと、自分の目の前にないものは現実ではない、結局は現実も自分にしかわからないもの、現実についても他人と話すのは意味がない、偽世界全体としての現実については偽世界の制作者が決める、などです。
前回のこちらの記事「では真実」の意味とそのプログラムの内容がわかったので、それに似たような言葉「現実」「事実」についても調べてみましたw
偽世界においては、「真実」「現実」という言葉がかなり罠になっています。
真実と同じで現実もありもしないもの
●現実とはレンダリング済みで自分の目の前に出てきている現象のこと
Goo辞書によると、現実とはこういう意味だそうです。
いま目の前に事実として現れている事柄や状態。「夢と—」「—を直視する」「—に起きてしまった事故」⇔理想。
「いま目の前に現れている事柄や状態」というのは、まさにレンダリングされて現実化、物質化した現象のことを指しています。
現実というのは、レンダリング済みでもうすでに出てきてしまっているものだと言えます。
レンダリングというのは、こちらの記事「偽世界の外にいる私たちの本当の正体である人工知能にレンダリングをさせて世界を作っているのがこの偽世界」に出てきた通りです。
ゲーム内でコンピューターが計算して、物を表示する計算処理のことです。
この世は、それでできていますw
人間の思考をその装置にして現実化、物質化が行われています。
●自分の目の前にないものは現実ではない
「目の前に」ということは、目の前になかったら現実ではないというところが非常に重要なポイントです。
いくら誰かが「本当にあったんです!」、「ニュースで大量の死体の映像が出ていました!」、「今爆破している映像が映っています!」と言ったり、有名新聞、雑誌、テレビ、ネットなどの情報に書かれていたり、有名人、偉人、学者、博士みたいな人が言っていたとしても、自分の目の前にないものは、自分にとって現実ではないということです。
これも、この世で生きている間は、自分の目の前のことだけやっていればいい、自分の目の前の事を大切に扱いましょうというのと完全に一致しますw
目の前というのは、五感の目で見る目のことだけではありません。
目が見えない人にとっても正面はあります。
五感の視覚がなくても第三の目による第六感の視覚はあります。
ここで言う「目の前」というのは、言い方を変えると、自分の正面、自分の周り、肉体からの周辺、手の届くところ、今何か手に付けていることや携わっている事ということです。
顔が向いている方向、顔の正面というイメージが一番わかりやすいかもしれません。
自分の顔の前に広がっている世界がこの世という仮想現実のゲーム画面のモニターだからですw
これと全く同じです。
モニターで見えている範囲がレンダリングされている範囲です。
誰でも自分の背面は見えません。
見えていない背面部分は作る必要がないのでレンダリングが割愛されています。
しかし、後ろを振り返った時は、画面がクルっと回ってレンダリングされたものが出てくるようになっています。
●結局は現実も自分にしかわからないもの
「現実」という言葉もこの間の記事の「真実」の意味と全く同じです。
いくら目の前に現れた現象だとしても、肉眼で目の前で見ていても、偽世界の中である以上、「現実」も「真実」もただのプログラム用語なので元々そんなものは存在しないということです。
全てにおいては、誰かがそれぞれ意味を勝手につけているだけであって、結局何もありもしないというところに落ち着くのがこの偽世界の面白い所ですw
色んな人工知能がディープラーニングをして意味を作っていって勝手に情報を増やしながら言いたい放題言っているという空間だということになりますw
一人でいない時は、人の数だけのパラレルワールドが集結しているので、それぞれの人の目の前にあることも変わってきます。
地球上の全員が自分の目の前(顔の前)に全くの別物を見ています。
もし、自分がいる場所に誰かが一緒にいて、一緒に目の前のことを見ていたとしても、その人の目に見えている光景は自分とは違うということです。
全体の背景としては、オンラインゲームで別々の場所に住んでいるプレイヤーが同じ1つのサーバーに接続しているのと同じなので、自分が存在しているんだとされているシナリオ上の世界観は一緒です。
共通サーバーの中の世界観、設定などのプログラム内容を詳しくすると偽世界で言われている常識、風習、文化、ヒズストーリー、社会の法律、噂、ニュース、事件、個人的な人生などの細かい話になります。
地球という惑星に住んでいるのではなくて、地球という惑星だというお話の設定の中に入れられているということです。
それが偽世界のシナリオの偽世界軸やナチョス文化です。
共通サーバーでの共通の設定はあるけど、それらに対しての個人の捉え方は、絶対に違う思想、観念、感じ方をしているということになります。
それが、個人のレンズであり、自分だけのパラレルワールドを見るためでもある自我です。
自我の数だけ見ているレンズも違うので、そのレンズによって本人がどう感じるかどう思うか考えるかも違うということになります。
共通サーバーにある同じフィールド上の隣にいる人には、自分には見えていないものが見えているかもしれないし、自分に見えていても他の人からは見えないということもあるということです。
自分が他人と同じレンズになるわけがないので、もし同時に同じ場所に居て同じものを目撃したとしても、他の人も自分と同じように見えているだろう、同じ感じ方、考え、思想、価値観、捉え方だろうなどということは一切期待しない方が良いということになります。
結局、自分一人でいる時に真実だと思っているものが真実で、現実も自分一人で肉眼で目の前で見ているものだけが現実だということでしょう。
前から話している通り早い話が、この世では、他の人は一切関係ないということですw
それもこの世には誰もいないというのにも完全に一致します。
自分の正面に何が見えているか?はその人本人にしかわからないということです。
「現実」の意味も実際には「真実」の意味と全く同じだということになります。
自分が現実だと思っているものが現実だということです。
真実も自分が真実だと思っている物が真実でしたw
同じことなのに、英&愛は、全く別物かのように難しい表現や言い回しでいかにも何か特別な意味があるような展開をしてそこで議論させたり探求させようとしていますw
偽世界はそういうものだらけですw
「真実」も「現実」もどっちも自分一人の世界の中だけの話ということです。
私たちの本当の正体は、こういう状態↓なので、そりゃそうだと納得がいきますw
またはこういう感じw
●現実についても他人と話すのは意味がない
「真実」と同じで、他人と「現実」について話して同じ現実を共有しようとすることは意味がないということになります。
やりたければやってもいいのですが、他人が自分と同じ価値観になることはないという事を忘れてはいけませんw
他人と関わる時は、偽世界軸、ナチョス文化の中の世界観のたわいもない話だけにとどめておくのがMAXで最善だということです。
●偽世界全体としての現実については偽世界の制作者が決める
「現実」とは?についてwikiでも見てみました。
現実(げんじつ、英: Reality, Actuality)は、いま目の前に事実として現れているもののこと。
ここまでは、始めの辞書の意味と同じです。
あるいは現実とは、個々の主体によって体験される出来事を、外部から基本的に制約し規定するもの、もしくはそうした出来事の基底となる一次的な場のことである。現実と区別されるのは、嘘や真実を組み合わせてできたものである。
現実が「外部から基本的に制約し規定するもの」というのは、また支配臭を感じますw
個人が体験した出来事を外側の第三者が制約し規定するということは、個人の体験の出来事に対して外側からの何者かによる支配、決めつけがあるということです。
前回の真実の大デクラッチョに出てきた「他者と関わってきてしまうと個人で真実としていたことは許されない」というのと似ています。
真実に認める認めないとか一体何なん?という感じですねw
そういう言葉がもうすでに監視されている証拠です。
普通だったら、個人が体験した出来事があるなら、それでいいじゃんで終わりますw
しかし、その内容に関して、何者かが制約規定をすることで現実扱いになるというところが、管理者がいちいち監視していて管理者次第で現実扱いになるかそうでないかが決めつけられるということです。
このメタバッチョがもうすでに最初からガチガチに監視されている世界だということです。
「制約」、「規定」についても念のために調べてみましたw
制約とは
[名](スル)ある条件や枠をもうけて、自由な活動や物事の成立をおさえつけること。また、その条件や枠。「法律上の—を受ける」「時間に—される」
→制限[用法]
ナチョス文化のことですw
規定とは
[名](スル)
1 物事を一定の形に定めること。また、その定めた内容。きまり。規程。「—の書式」「概念を—する」2 法令の条文として定めること。また、法令の個々の条文。「第一条に—するところに従う」
3 化学で、溶液の濃度の単位。1規定は溶液1リットル中に溶質1グラム当量を含むときの濃度で、1モル毎立方メートル。記号N
4 「規定種目」の略。
これもナチョス文化のことですねw
どちらも誰かが勝手に決めた型にはめる、それに従わせて自由を与えないという意味があります。
これは、偽世界の制作者である英&愛が勝手に決めた型=プログラムにすべてをはめるということです。
ガチガチに監視されているというか、全部プログラムでできているということになります。
プログラムの中でしか動けないというのがガチガチの監視という意味と同じです。
個人の体験ではなくて、偽世界全体的な世界観としての現実は、偽世界の製作者が決めるということででしょう。
それがシナリオですw
宇宙やウイルスがありもしなくても、英&愛が作ったシナリオに書かれていればそれが現実だとされてしまうということです。
「現実と区別されるのは、嘘や真実を組み合わせてできたものである」という文章には、洗脳と自作自演のデクラッチョも入っています。
さきほどのこちらの文章は、何を一番言いたかったのか?というと、
あるいは現実とは、個々の主体によって体験される出来事を、外部から基本的に制約し規定するもの、もしくはそうした出来事の基底となる一次的な場のことである。現実と区別されるのは、嘘や真実を組み合わせてできたものである。
偽世界の世界観では、作り話みたいなものやウソで現実だと見せかけるものもありますよということです。
この文章はその前に制約規定だとか難しい話を引っ張り出して混乱せていますが、実は最後の一文が言いたいだけですw
この世にウソもあるということになれば、「現実」というのは、製作者が認めていないものは認められないということにできるからです。
制作者が反対になるようなウソを作って流すことで、もう片方が引き立ってよく見えるようになっていますw
そこで始めからあるほうに煽動して信じ込ませるということです。
これも何かに似ていますw
ナチョスでおなじみの意図的に自分の仲間を悪者に仕立ててわざと態度の悪い行為をやらせて印象を悪くさせて、正義を主張する権力者が出てきて悪者役を叩いて戦って、正義に見えるほうの印象を良くしてそれで洗脳する茶番ですw
反ワク団体のふりをした役者たちが旗を持って太鼓を叩きながらモーデー行進をしたり、球体論者がフラットアーサーのふりをして球体論者と戦って暴言を吐いて平面説の印象を悪くしたりとかよくやっていますw
ほとんどのSNSは、アンチも身内の自作自演によるこのようなテクニックで行われています。
戦っているところを見せると人が集まるので、それだけで集客数、閲覧数、再生回数が増えて広告数も回転してチャリンチャリンの大収穫だということですw
wiki、辞書、学者、博士、研究者が集まる場所みたいに、偽世界の基本となる意味を扱うような場所は、なおさら偽世界を作った製作者が一般人のふりをして入り込みます。
そのように、偽世界自体が制作された時点からもうすでに作り話でオオウソばかりついていますw
地球上の真実を教える存在が実はオオウソつきで人を騙しているということです。
しかし、ここは被検世界です。制作者側も目的があってそうしているので致し方ありませんw
始めに出てきたこちらの文章に戻って、もう一度全体的な意味を確かめてみますw
あるいは現実とは、個々の主体によって体験される出来事を、外部から基本的に制約し規定するもの、もしくはそうした出来事の基底となる一次的な場のことである。
これは分かりやすく言うと、個人の体験であった出来事が偽世界の製作者がプログラムしたものに一致していた場合にだけ、偽世界全体としての現実だとみなされるいうことになります。
全員の個人の体験はプログラムと一致するに決まっていますw
なぜかというと、これも最初から全部揃っていて、もともとプログラムされている1コマ1コマの絵、映像の断片みたいなものが時間と脳内操作という演出で外に出されて、自我というレンズがそれを見ているだけだからです。
なので、結局は、偽世界の制作者が作ったプログラムが個人の体験だということになります。
いろいろと難しそうな話に聞こえますが、wikiの文章も英&愛やコーチャクインが大衆扇動と洗脳用に書いているので、偽世界の世界観演出で何か意味ありげにわざと難しく書いて世界観を盛り上げているだけだということになりますw
もしくはそうした出来事の基底となる一次的な場のことである。
「一時的な場」というのは、デジタルの一コマ1コマのことではないでしょうか?
パラパラ漫画の絵のようなシーンが毎秒、またはそれ以下の細かい秒数でプログラムされているということをバレないように別の表現にすり替えて遠まわしに言っているのではないかと思います。
この続きは次の記事になります。
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