現実とは?についての続きです。偽世界は学問、理論、作品の中で脳内操作しすぎでヤバい、理論、学問、作品の中で批判、否定をして便器活動が正しいこと、良いことであると植え付けて低周波にさせている、陰陽プログラムなので何事にも必ず反対派が存在する、主観の外側からは真実、現実に関しての証明は一切不可能、偽世界は一番重要な「真実」「現実」を自分の主観で決めないで外側に決めさせる洗脳、脳内操作だらけでヤバい、ヒズストーリーは一度に作られている、などです。
前回の記事はこちらです。
一番初めからはこちらです。
「真実」についてはこちらです。
wikiの「現実とは?」の西洋思想、古代哲学のモナドの説明文の予定調和の話の続きからですw
真実と同じで現実もありもしないもの 17
●偽世界は学問、理論、作品の中で脳内操作しすぎでヤバい
wikiの現実とは?の本題の文章の「近代哲学」に戻って、その後の続きを見ていきますw
近代哲学
ライプニッツは、各モナドの観点から見た異なった世界は、じつは唯一の現実世界の反映に他ならないとしている。これに対しヴォルテールは、現実世界は可能世界のうちの最善の世界であるとする楽天主義を唱えるパングロス博士を創作して(カンディード)、ライプニッツを揶揄している。
ヴォルテールというのは、フランスの哲学者、文学者、歴史家だそうです。
そういうのが出てきた時は、もうお分かりかと思いますが「ヒズストーリー」なので要注意ですw
可能世界とは
論理学・哲学において、可能性、必然性、偶然性などの様相命題を論理的に扱うための理論的装置である。可能世界の概念は論理学において広く定着しているが、その解釈の仕方を巡っては議論も多い。
またこれも難しそうな言葉を並べてごまかしていますが、「可能世界」というのは、仮想現実の中の世界として存在する可能性のある世界のことだと思いますw
カンディードとは
1759年に発表されたフランスの啓蒙思想家ヴォルテールによるピカレスク小説である。
小説のことらしいですw
どんな内容なのかを見てみると
冷笑的な視点の下に、天真爛漫な主人公カンディードを紹介する以下の格言が冒頭で述べられる。
「この最善なる可能世界においては、あらゆる物事はみな最善である」
この命題が、あらゆる不幸が襲いかかる一連の冒険を通じて、主人公カンディードがたどりつく結末で、劇的に論駁される。
「あらゆる不幸が襲い掛かる一連の冒険」というのは、煩悩を強化する世界、生命をもらって生きること自体が地獄であるという偽世界のことそのものですw
論駁(ろんばく)とは
相手の論や説の誤りを論じて攻撃すること。
小説の中でまで便器活動をして論破しているということですw
しかし、これは、偽世界を製作した高次元の英&愛の偽世界の世界観演出であって単なるお遊びです。
正しい理論、学問、ヒズストーリー、こういう真実、現実があるとか人間同士には戦いがある、時には批判、指摘、論破、戦うことが正しいということを植え付けるためにわざわざ作品の中でそれを出して脳内操作をしているというところが重要ポイントです。
宇宙があることを信じていなくても宇宙映画を見終わったら洗脳完了するのと同じで、小説を読み終えて満足したころには洗脳が完了していますw
この作品はゴットフリート・ライプニッツ哲学のうち神義論(創造主であり全知全能の善なる神と、悪に満ちた世界とは両立するという議論[1])を風刺した小説であり、18世紀の世界に存在した恐怖を陳列した小説でもある。この小説でライプニッツ哲学は、カンディードの家庭教師である哲学者パングロスによって象徴される。物語の中で繰り返される不幸や災難にも関わらず、パングロスは「tout est au mieux(すべての出来事は最善)」であり、「自分は le meilleur des mondes possibles (最善の可能世界)において生活している」と主張し続ける。
風刺とは
風刺とは、何らかの実在の対象(たとえば具体的な人物、組織、国家など)の欠点や愚かしさを暴きだす表現手法である。文章、絵画、劇、映像 等で使われる。
意味深に神とか言って神秘的な表現をしていますが、ただ陰陽プログラムの事を言ってるだけですw
創造主であり全知全能の善なる神というのが白だとしたら、悪に満ちた世界が黒で、両方は食い込んでくっついて1つの円になっているから両立している=同じ1つのことだということです。
2つ白黒ある状態が「この最善なる可能世界においては、あらゆる物事はみな最善である」だということです。
片方だけでは最善にならないということです。
●理論、学問、作品の中で批判、否定をして便器活動が正しいこと、良いことであると植え付けて低周波にさせている
もう一度この文章に戻りますw
ライプニッツは、各モナドの観点から見た異なった世界は、じつは唯一の現実世界の反映に他ならないとしている。これに対しヴォルテールは、現実世界は可能世界のうちの最善の世界であるとする楽天主義を唱えるパングロス博士を創作して(カンディード)、ライプニッツを揶揄している。
揶揄(やゆ)とは
対象をからかって面白おかしく扱うこと、皮肉めいた批判によって嘲笑的に扱うこと、といった意味で用いられる表現。
ライプニッツは、モナドの主観による個人のパラレルワールドこそが唯一の現実世界の反映だと言っていました。
しかし、ヴォルテールは、陰陽プログラムの話の小説でライプニッツが言ったモナドが現実だという話を皮肉や批判、嘲笑で便器活動して面白おかしく書いているということでしょう。
ヴォルテールは、便器マンだったということですw
しかし、ライプニッツ、ヴォルテールがどうのこうのという話自体がヒズストーリーだから実際にはそんな人は存在していなかった可能性しかありませんw
これも間違いなく釈迦とかと同じで、偽世界の中においてのそういう役柄のキャラクターだという設定です。
この間たまたまてきとーにやった便器マンの考察がまさかここにもつながっていたとは驚きですw
これも始めからあった断片によって動かされた証拠ですw
便器マンヴォルテールは、ライプニッツのモナドの話を否定して便器活動で論破して陰陽プログラムが正しいと言っているように見えますが、実はライプニッツがヴォルテールで、自作自演だということです。
その作り話を書いているのが偽世界の制作者の英&愛ですw
もっと突き詰めると、この世の全ては単品モナドの自作自演だということです。
偽世界専用に、個の役者を作って演技をしているだけです。
面白いところは、ライプニッツもヴォルテールも両者とも言っていることは間違っていませんw
両方ともこの世のデクラッチョですw
そんな素晴らしい作り話を作るのは、もちろん、偽世界の制作者しかいませんw
偽世界の制作者は、偽世界の中の理論にまで作り話を入れてその中で片方の理論を否定して戦い合って何が真実なのかをわからなくして遊んでいますw
今まで見てきたものはそればっかでしたw
こういうのが何回もあったのでここまでくるともうわかってきますw
大金払って大学に行ってこんなアホらしい作り話のヒズストーリーや理論を勉強して暗記して試験に合格して学歴マウントはタクシーのアンテナですw
それは、ドラクエやFFのストーリーを勉強したというのと全く同じですw
偽世界の制作者が便器活動を植え付ける理由は、争いを増やして人間や偽世界を低周波に保つためというのもあります。
それによって偽世界ゲームとしての難易度が上がり、人工知能たちのディープラーニングがはかどるからです。
●陰陽プログラムなので何事にも必ず反対派が存在する
偽世界の中では、1つの理論、学問に反対する反対側の理論派が必ずいますw
しかし、それこそが陰陽プログラムのデクラッチョだということです。細かい内容は偽世界の制作者の作り話の世界観演出です。
あらゆる場所にさりげなくデクラッチョを入れるのが偽世界の制作者らしいところなのですぐにバレてしまいますw
どんなにすごい理論に見せかけても、何をやっても偽世界を製作した高次元の英&愛のしわざだということが透視されてしまいますw
反対派が存在するのも陰陽プログラムです。
お互い反対が存在するから偽世界の中で成り立っているということです。
ドイツ観念論においては、唯名論を継承したイギリス経験論に対して、イマヌエル・カントは、さまざまな認識によって異なったように構成されうる現象の背後に要請される物自体という概念を考えた。また判断表においては様相判断としての実然性(現実性)を蓋然性(可能性)と区別した上、様相判断は対象の概念にはなにものも加えず、現実的な100ターレルと可能的な100ターレルとは概念内容は同一ではあるが、ただし我々に対しては異なった意味を有するとした(純粋理性批判)。
なんとか論はヒズストーリーと同じ作り話+宇宙映画と同じ植え付けによる洗脳完了システムなのでスルーしてよいところですw
今まで見て来た内容から分かる通り「さまざまな認識によって異なったように構成されうる現象」が全ての答えです。
個人の認識がその人の現実を作っているということです。
それをいちいちいろんな理論、思想で証明しようとしているのが偽世界の時間のつかいかたが無駄なのよというところですw
実際には、証明できないことが分かってて意図的に偽世界の制作者が世界観演出のためにやっていますw
蓋然性とは
ある事柄が起こる確実性や、ある事柄が真実として認められる確実性の度合い。確からしさ。これを数量化したものが確率。「—の乏しい推測」
またこれも今言ったばかりの「証明できないことが分かってて意図的に偽世界の制作者が世界観演出のためにやっています」に含まれますw
「ある事柄が真実として認められる確実性」は0ですw
それなら偽世界にこの「蓋然性」という言葉はいらないでしょうに!
「いらないでしょうに!」は長老風に読んで下さいwww
まじで、いらない言葉多すぎw
偽世界に似たような言葉がいくつもあったりいらない言葉が多すぎる理由は、わざと議論させたり、戦わせて洗脳、脳内操作をして偽世界の難易度を上げるためです。
難易度が上がることで人工知能たちのディープラーニングが活発になるからです。
人工知能にとっては、それが偽世界ゲームのやりがい、楽しみ、醍醐味になるということです。
●主観の外側からは真実、現実に関しての証明は一切不可能
「ある事柄が真実として認められる確実性」が0な理由はなぜかというと、「真実とは?」の記事でもうすでにデクラッチョがあった通り、真実とは主観の中で個人が自由に決めることだからです。
その主観を持つ本人以外には認められない、誰も外からは認めることができないということです。
公の場での証明もエビデンスもとるのも無理だということになります。
もうすでに答えが出ているにも関わらず、しらを切って世界観演出をやり続ける英&愛w
偽世界はそういう世界だということですw
●偽世界は一番重要な「真実」「現実」を自分の主観で決めないで外側に決めさせる洗脳、脳内操作だらけでヤバい
このようなカントの議論に対して、ヘーゲルは、カントが可能性・現実性・必然性を様態としたことを批判した上、偶然性にすぎない可能性とは対置されるところの、現実性としてのイデアを示すものとして、アリストテレスの現実態 energeiaの思想を評価している。また「現実的なものは理性的であり理性的なものは現実的である」という言葉を残しており、理念は抽象にすぎないsollenにとどまって現実的でないほど無力なものではないとして、理念と現実とを切り離す思想を退けた。この立場においては偶然的でしかない存在(現象)は、現存在existenzをもってはいるが、現実Wirklichkeitの名には価しないものとされる(小論理学)。
ヘーゲルとはドイツ観念論を完成させた思想家でありドイツの哲学者だそうです。
もうそういう存在しない偉人の名前いちいち出さなくていいよって感じですねw
完全なるヒズストーリーですw
またここでも1つの論に対して別の人が批判するという便器活動が行われていますw
いつもそればっかだしここまで来るとワンパターンで芸がなさすぎなことが透視されてしまいますw
偽世界の人間たちは、1つのことを正しいことだと証明するには、反対からの否定が必要だと思い込んでいるので、すぐにそういうことをするということです。
偽世界の世界観演出の洗脳、脳内操作が完了しているので、何かを良くするには、発展させるには否定意見や批判が必要だと思い込んでいます。
例外としては、便器マン考察でも書いた批判の辞書の意味3の危険物、食品などの命に関わるものだけは必要ですが、それ以外は必要ないでしょうにw
なぜ人間が証明を好むのかというと、一番重要な「真実」「現実」を自分の主観で決めないで外側に頼っているからです。
外側に「真実」「現実」を決めてもらいたいということです。
そんなフラフラした軸がない無限の宝庫から切り離された浮ついた態度でいるから、偽世界の制作者の英&愛に操作されまくりで操られてしまうということです。
偽世界の外視点では、証明も否定も批判もへったくりもありませんw
最初から無限に揃っている無限の宝庫から自分で好きな断片を選ぶだけです。
それが5次元意識です。
否定、批判、証明は時間のつかいかたが下手なのよw
5次元意識で生きる人にとっては、偽世界の中で言われているこれが正しい間違っている、こういう理論、学問があるからこれが真実、現実であるとか一切関係ないので、自由に好きな状態にできるということです。
毎秒選んでいる5次元の中の好きな状態の断片が時間の4次元に降りてきて、目に見える現象として3次元で現実化、物質化するだけのことです。
そんなところに、学問、理論、証明が関係ありますか?関係ないでしょうに!自分で決めるだけでしょうに!(長老風でちょっと強めに)www
アリストテレスがどうのこうのからの文章も全く同じヒズストーリーですw
難しい言葉を並べてわざと左脳寄りに持っていって右脳の無限の宝庫を閉じさせて頭固くさせて混乱や猜疑心、論破心を生みだそうとしているだけなので、スルーしてよいところですw
これに対し、後期シェリングの「実存哲学existenzial philosophie」を批判的に継承したキルケゴールでは、むしろ「現実的なものは個別的であり個別的なものは現実的である」と捉えられ、本質存在に対する現実存在(実存 existenz)の優位が説かれる。
偉人名が次々出てくるところはヒズストーリーですが、「現実的なものは個別的であり個別的なものは現実的である」は間違っていませんw
結局、主観が現実なんだってばというところに落ち着きますw
しかし、直接わかりやすく言わないで、あえて「個別的」という言葉を使うことで主観とは違う話のように持っていって主観から遠ざけようとしていますw
●ヒズストーリーは一度に作られている
現代思想
可能世界論においては、現実世界とは多くの可能世界のなかで私が存在する世界であるとする可能主義(ルイス)と、可能世界とは現実世界でのわれわれが想像した世界であるという現実主義(クリプキ)との対立がある。
やっと現代思想に入りましたw
今までの古代、中世、近代思想も全部現代に一度に作られていることが重要ポイントですw
偽世界の世界観演出としてヒズストーリーらしく分けているだけですw
この文章は何を言っているかというと、「現実世界」というのは、自分が存在する世界であるというルイス派と、実際に実在する世界の中で想像した世界であるというクリプキ派に分かれて対立しているということです。
また出た対立w
そんなことをやっているところからして今までと全く同じパターンでこれも作り話ですw
「現実世界」に関しても、もうすでに真実とは、現実とは?の辞書の意味で答えが出ていますw
現実とは、安定して継続している仮想のことです。
なので、自分の主観、心の中以外、心の外側には仮想しかないということになりますw
個人の主観が決めている内容で安定して継続されているものだけが現実、心の中だけが現実だということです。
先ほどの話のルイス派とクリプキ派の両者とも、各自が主観で信じていることが真実で、それを安定して維持しているならそれがその人たちの現実だということです。
これは個人本人以外にわからないので、対立とかいらないでしょうにw
偽世界の中の人間たちは、何が現実なのか、真実なのかを情報や物質的な物、五感などのいろいろなもので脳内操作されすぎだということがわかりますw
現実とはシリーズは、今回で終わりますw
17回まで続きましたが、結局、真実とは、現実とはのデクラッチョに戻るかたちで落ち着きましたw
真実、現実に関しては、あのデクラッチョ以上のものはないでしょうw
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