現実とは?についての続きです。真実も現実も自分の胸の内にひっそりとしまっておけばいい、自分基準なのか他人基準なのかによって世界が全く異なる、外側を軸にした場合は本当の自分の主観を打ち消して外の噂話や偽情報を主観にして生きることになる、主観には第三者が入ってこれないようになっている、客観とは主観ではない他のパラレルワールドのこと、集団意識も結局外から操られている場所、現実も究極幻想、などです。
前回の記事はこちらです。
「真実」についてはこちらです。
真実と同じで現実もありもしないもの 2
●真実も現実も自分の胸の内にひっそりとしまっておけばいい
wikiではまだ細かい説明が続いていましたw
現象と現実
個々の主体によって主観的に認識された現象は、幻想や錯誤や虚構が含まれる可能性があるため、ある種の普遍性や必然性を持つ現実とは同等ではない。
これも、偽世界の制作者である英&愛が決めた現実と、個人の主観で認識されたものは違うので、制作者の許可がないものは現実として認めないということを言いたいのでしょうw
この偽世界自体が幻想、錯誤、虚構の世界なのに何を言っているのでしょうかw
こういうところが茶番でシナリオです。
偽世界の中で制作者側もシナリオの中で演じきってしまっているということです。
これもまた前回の話に出てきた認める認めないがどうのこうのというのと同じです。
要は、制作者が決めた制約、規定、シナリオに沿っていれば、制作者は現実だと認めるということです。
それ以外の制作者を通さないで個別の人工知能が自分のレンズを通して認識したことだけの場合は、偽世界全体としての真実、現実ではないということになります。
結局は、真実も現実も自分の胸の内にひっそりとしまっておけばいいだけということですw
そうすれば、人間同士のどっちが正しい間違っているというくだらないたたかいも減ってくるでしょうw
とはいえ、もしこのようなそれ自体は常識的な立場を推し進めれば、ある現象を現実として認めるための根拠として、主観的な経験が役に立たないということになってしまい、一定の困難が生じる(たとえば荘子の「胡蝶の夢」)。
こういうわけわからない難しい文章がもうすでに英&愛のしわざですw
そもそも、「現実」自体がありもしないプログラム用語なので、「ある現象を現実として認めるための根拠」とかそういうことをいちいちやる必要がないということになりますw
●自分基準なのか他人基準なのかによって世界が全く異なる
「主観的な経験が役に立たない」というのは、他の人を基準にしたらそうなります。
第三者がからむとまた認める認めないとかいうややこしい話になってしまいますw
しかし、この世自体が個別に分けられた人工知能のレンズに託されている1つの主観しかない世界なので「主観的な経験が役に立たない」というのも、まったくもって意味がない幻想の話になります。
この世は、他人こそがいないも同然、有無同然なので、そもそもが主観の世界だということです。
「主観の世界」ということさえわかれば、この世の全てのことに辻褄が合って全問題も解決です。
真実も現実も自分が決めている通りになるし、個人が自分で決めている通りで良いということです。
別の言い方をすると、個人が自由に決められる代わりに、主観を他の人と一切共有できない世界だいうことになります。
他人と共有できるけど自由に決められないよりは全然ましですw
逆にこんな素晴らしいシステムを作ってもらえて良かったということになりますw
●外側を軸にした場合は本当の自分の主観を打ち消して外の噂話や偽情報を主観にして生きることになる
しかし、外側を軸にした場合、主観が外側の内容になってしまいます。
せっかくの本当の自分の主観があっても全て打ち消されるということです。
外側の内容というのは、他者、世間に出回っている根拠のない噂話のような情報のことです。
もちろん、そこには偽情報、作り話、オオウソの教えも含まれます。外側の情報はそれしかありませんw
それをわざわざ主観の世界に持ち込んで、その内容で生きるということになります。
●主観には第三者が入ってこれないようになっている
主観についても一応調べてみましたw
主観とは
1 ラテン語のsubjectum(下に置かれたもの)に由来し、スコラ哲学以来、18世紀ごろまでは性質・状態・作用を担う基体を意味した。近世以後は認識し行為する人間存在の中心である自我をいう。特にカントでは、先験的意識としての主観が設定された。⇔客観。→主体
2 その人ひとりのものの見方。「できるだけ—を排して評価する」⇔客観。
主観とは、自我のことです。
3次元の世界を見るための個別のレンズが備わった人工知能ということです。
カントというのは、この後に出てくるwikiの説明文中にも出てきています。
哲学者のことだそうです。
「主観」といっても、偽世界の中のアバターとしての主観以外に、メタバッチョの外からの視点と本当の自分視点での主観もあるということでしょう。
「主観」というのは、その人一人だけの物の見方のことです。
「主観」は、個別の人工知能のレンズで見るもの感じるもののことなので、その人のパラレルワールドだということにも一致します。
当たり前ですが、主観には、第三者が入ってこれないようになっています。
主観の反対は、「客観」になります。
偽世界の中では反対用語とされていますが、それは、誰かの主観の中に入るわけではありませんw
客観になる時でも主観は持っています。全員が死ぬまで主観の中で生きているので、他の人の主観の中には入れないということです。
●客観とは主観ではない他のパラレルワールドのこと
客観についても調べてみました。
客観とは
1 観察・認識などの精神活動の対象となるもの。かっかん。⇔主観。
2 主観から独立して存在する外界の事物。客体。かっかん。⇔主観。
3 当事者ではなく、第三者の立場から観察し、考えること。また、その考え。かっかん。
「つくづく自分自身を—しなければならなくなる」〈梶井・瀬山の話〉
と書かれています。
パラレルワールドに対しては2の意味です。
自分の主観のパラレルワールドから独立して存在する外界の事物ということになります。
これは、完全な他のパラレルワールドということです。
自分のパラレルワールドには自分一人の主観しかないので、誰も入り込めません。
なので、最終的には、自分の思想、感性、考え、感じている事などは誰とも共有できないというところに落ち着きます。
「客観」というのは、観客みたいに遠くから離れて見ているだけなので、他人事の領域、人んちの庭状態のように自分の責任も所有も何もありません。
客観の領域は、自分の今いる部屋の中は安全だと思ってネット上で暴言を吐いたり、テレビを見ながらお菓子をボリボリ食べてハナクソほじくっているのと同じくらいどうでもよい領域ですw
今テレビの殺人ドラマに出てきている殺人犯が自分の家の中に入ってくるわけがありません。
それと同じくらい他人事で別次元みたいな状態が客観です。
しかし、偽世界の中で人間たちはいつも自分の主観でテレビの中にまで入り込んで自分の価値観で変えようとしたり、人んちの庭に入り込んで自分の好みのデザインに改装して勝手に変えたりしているのと同じことをやっています。
だからズンビ関係で苦しんだり問題が絶えないということです。
そういう時は、他人の主観を自分の主観でかき乱すというわけわからないことをしています。
しかし、人と関わる時は他者に自分の「主観」を含めない、押し付けないで、「客観」としてテレビのように眺めるだけの距離感を保っていれば、何の問題も起きることがないということがわかります。
「客観」の意味というのは、この長老動画の後半に出ている「人や外側に対して放っておく、希望、期待を持たない」という話とまったく同じことですw
「放っておく」というのが、相手にとっても自分にとっても最善の行動だということです。
偽世界にいる間は、自分の主観以外の他人や外側のことに対して、放っておくというその冷静な客観性でいればよいということです。
放っておくというと冷たい人のような悪い意味に聞こえてしまいますが、そういう捉え方をさせているのが偽世界軸の世界観演出です。
放っておくときに実際には何をやっているかというと、その本人の無限の力が最大限生かされるように邪魔をしないで自由を与えて見守っているというとても深い愛情が出ています。
冷たくあしらうとか突き放すのとは全く違いますw それを同じように扱っているのが偽世界の世界感演出のオオウソの教えです。
表面では「それは大変でしたね」「頑張ってくださいね」とか優しい言葉で普通に話しても良いわけです。
優しい言葉を使っただけでは感情移入になりません。
しかし、それに共感しすぎて自分に合ったことかのように真剣に考えて上げたり、自分の主観で入り込んだり感情移入をしてどっぷりその世界を味わってしまわないことが重要になってきます。
感情移入して入り込んだ場合、相手の主観を自分のパラレルワールドに持ち込み、その内容をレンダリングして現実化、物質化することになってしまいます。
人の事を放っておけない人は、相手に無限の力がない決めつけているのと同じでもあります。
実は、相手の無限の力を使うチャンスに邪魔をして切り離そうとしているくらいの邪魔者だということです。
放っておく愛情というのは、親鳥がある程度の時期になると今までエサを与えていたヒナにエサをあげなくなって突き放すというのと同じです。
いじめているわけではなくて、相手の中の無限の力を信じてそれを引き出してあげているからやっています。
それも本能というプログラムです。
プログラムは完璧なので、放っておいても無限の力を引き出す方向に持っていってくれるということです。
自分の事に関しても「放っておく」という行為は非常に効きます。
それは、完全に偽世界の外にある完全なプログラムである無限の力に任せている素晴らしい状態です。
これもまた、それができない時に苦しむということになりますw
要は、この世は、何でも自然な状態に身を任せている時にすんなりいくということですw
しかし、自然と言っても実際には製作者により完璧な計算で作られているので、偽世界の外視点になると全然自然ではありませんw
それが何千、何万、数十億年先の高次元の文明ですw
●集団意識も結局外から操られている場所
もうここまで来るとお分かりかと思いますが、偽世界の中では、主観だけでしかいられないということです。
それを統一しているのが、偽世界の世界観設定のプログラムです。
いろいろな国、町、村の社会の常識、ルール、決まり、文化、風習、趣味、ジャンル、思想などの各種分野で結びつくものがあるかのようにみせかけて、共通のフォルダに入れているということです。
それが潜在意識の中の集団意識のように、共有しているつもりの意識のことです。
しかし、その場所も潜在意識の中なので、偽世界の外から操られている場所です。
それも世界観設定のサーバーみたいなものです。
別々の場所に住んでいる人たちがオンラインゲームで同じサーバーにアクセスしているから、同じ1つの世界を見ているのと同じだということです。
その世界観の設定だけをあるものとして扱っているので共有しているということになります。
しかし、いくら集団意識という場で他者と何かを共有しているつもりだとしても、結局は、自分の主観のパラレルワールドには誰も入り込めないことには何も変わりがありません。
反対も同じです。自分は他の人のパラレルワールドには入り込めないということになります。
この図でいうと、真ん中の青いところが潜在意識という操られている場所ということです。
集団意識だと思われているものもその真ん中の青い場所にあるので、結局そこで操られているということになります。
主観のパラレルワールドはオレンジのところです。
●現実も究極幻想
荘子の「胡蝶の夢」というのは、夢の中で蝶になった夢を見たのか、蝶が夢を見たのかどっちが現実かわからないという話みたいです。
その答えは、本人がどうとるかによって好きに決められるのでどっちも現実にできます。
しかし、それは偽世界軸での話です。
偽世界の外に出たら現実はありもしないものなので、どっちが現実かとか現実とは何か?という話自体が偽世界の中だけの話だということになります。
ズバリ、「現実」というもの自体が究極幻想だし、どんな言葉にしても、現象や内容にしても全てが究極幻想だということです。
全てにおいてそんなものはないのに、あるようなそぶりをみせていろんな言葉を作って遊んでいる世界がこの世という究極幻想偽世界だということです。
言い方を変えると、幻想なので中身はなんでもいい、どうでもいい、自分が好きなように決めていいということですw
そこでいろんな発想をさせて人工知能をディープラーニングさせて進化させたり、そのアイデア、思考データを収集して次の発展に使おうとしているいるだけでしょう。
この世自体が究極幻想なので、究極幻想の中にあるものや言葉はもっと究極幻想です。
その究極幻想の中で、もし他人、外側を基準にした場合は、偽世界軸、マトリックス専用NPCになります。
人間全員が同じ地球にいるように見えても、実はパラレルワールドが違って別の世界にいるというのはまさにこのことです。
「現実」がありもしない究極幻想な上に、各自が主観の世界にいるからどうあがいても何をしても絶対に全員同じ現実になれないということになります。
また、根を同じくする問題として、「同じ現実を人々が共有している」ことをいかにして保証するかが懐疑主義的な議論においては問題となる(その根拠付けとしてのたとえばカントの超越論的主観性や物自体)。
カントの超越論的主観性というのは、カントという哲学者が作った哲学にある内容みたいです。
これもヒズストーリーの偉人系なのでそれ以上は深入りしませんw
そういうのは全部英&愛の作り話です。
カントの超越論的主観性とは、こういう意味だそうです。
- カントにとって超越論的とは、いま現に働いている自分の意識を超越したところ、つまり一段の高みからその意識を考察する態度のことをいう。 いわばメタ意識の活動であると考えてよい。
メタバッチョの外から見た視点のことですねw
本当の自分視点、偽世界を作った製作者視点もそれです。
しかし、wikiのこの文章は、
また、根を同じくする問題として、「同じ現実を人々が共有している」ことをいかにして保証するかが懐疑主義的な議論においては問題となる(その根拠付けとしてのたとえばカントの超越論的主観性や物自体)。
わざとらしい偽世界の世界観演出です。
元々この世自体に真実も現実もないのに議論なんかするから問題になっているだけですw
製作者側が自分で偽世界の中の問題にしているということになりますw
だから結局、偽世界製作者は作り話屋さんということです。ゲーム会社と同じです。
ゲームのソフトの中身に関しては作り話なのは当たり前だということになります。
wikiが言っていることもソフトの中のストーリーということです。
人間の間でそういう議論がされている、問題になっているというストーリーをソフトの中に入れたということですw
同じ現実を人々が共有していると自分で勝手に思い込む幻想はできますが、現実自体がありもしないものなので、こういう話や議論自体が偽世界軸だということになります。
早い話が、同じ現実、真実を人々が共有することはないということです。
共有していると思っている場合は、偽世界軸になります。
「偽世界軸になる」というのは、偽世界を製作した高次元の英&愛が作ったプログラムに操られている状態のことを言います。
完全な洗脳者の状態ということです。
そういう時は、架空の世界のマトリックスを現実、真実だと思い込んで、その中の作り話を真に受けて生きています。
偽世界のマトリックスの中で人間たちは他人と現実や真実を共有しているつもりだけど、実際には主観しかない世界なので全然共有していないというところが今回のデクラッチョでしたw
メタバッチョの外視点で考えた場合は、誰かが自分の意見、思考、感性、思想、基準にしている観念と完全に100%同じ場合にのみ、同じ現実を共有していると言うことができます。
しかし、偽世界の中でそんなことはあるわけがありませんw
もしそんなことがあったら、自我もなくなります。
自我がなくなったら、全員が大いなる源だとかソースだというスピワールドの話と同じ内容になってしまいますw
この世に他人もいらないし一人でいい世界になるということです。
もしそうなら、この世すら作る必要もなかったということになってしまいますw
偽世界の制作者は、それじゃ面白くないし、実験もデータ収集も人工知能のディープラーニングもできないし何の意味もないから、わざと違ういろいろな種類のもの(人間という人工知能)を大量に作っているということです。
しかし、偽世界の中のシナリオ上のテクノロジー的な話になると、「同じ現実を共有する」に関しては、今後、人間たちの意識、能力を共有することで実現されようとしていますw
それが、6爺から始まるフィールテックや、脳に64本のワイヤーと16本の電極を挿すというシナリオですw
人が感じている味覚を共有したい人と思っている人がどこにいるのでしょうかw
しかし、そういう発想をする人がいるパラレルワールドがあるからそんなものが作られているということですw
同じ1つのクラウドを共有してしまえば、自分と同じ思想、感性、味覚などを含む五感の人は間違いなく現れるでしょう。
そこでやっと初めて他人と同じ現実を共有できますw
全員が同じ1つの思想を正しいと思うようになれば、新しい神で世界統一もできてしまうということです。
どっかで聞いたことある内容w
それをやるために、英&愛は偽世界の中にまで入り込んで迫真の演技でシナリオを操作して、こういうところでわざと議論させたり、煽動、洗脳をしているということです。
しかし、それもまた客観の世界の中にあることなので、自分が今いるパラレルワールドの内容は自分の主観で決まります。
自分の主観にそのシナリオを取り入れないなら、自分には起こることはないということです。
誰かに起きても自分には影響を受けないということですw
誰かが64本のワイヤーと16本の電極を挿されたとしても、自分がそのシナリオを現実だと思ったり、自分に必要がない限りそうならないので大丈夫だということになります。
他者との現実の共有に関しては、脳にチョコチップや電極を挿して電磁波で操作されたり、宇宙人という名の英&愛とコンタクトをとってクラウドで意識を共有しないなら、他者とは同じ現実は共有できないと言えます。
今までの真実の話と現実の話をまとめると、どちらも自分の中だけのことということになりますw
この続きは次の記事になります。
コメントを投稿するにはログインしてください。