現実とは?についての続きです。想いの力だけが現実、自分にとっての現実が何かを知る、本当の現実だと思い込ませるのが高次元のテクノロジー、偽世界では深刻な話題ほど作り話、主観こそが神にあたるもの、などです。
前回の記事はこちらです。
一番初めからはこちらです。
「真実」についてはこちらです。
wikiの「現実とは?」の西洋思想、古代哲学からの続きです。
真実と同じで現実もありもしないもの 11
●想いの力だけが現実
アリストテレスは可能態(潜勢) dynamisと現実に活動している現実態(現勢) energeiaという様相的区別を考えた上、最高度に現実的であるものは純粋な現実態である神であるとしている。また個物における第一実体と普遍者としての第二実体を区別している。
「デュナミス」もまたゲームに出てくる言葉です。
うさおっちょストーリーでは、現実化させる想いの力でした。別名でアーカーシャとも言っていました。
アーカーシャという言葉は偽世界の中でもスピや宗&教に出てきます。
アカシックレコードは名前からしてアーカーシャから来ているのではないかと思います。
アーカーシャ+レコードで今まで生きていた全生命体の想いの力、心の力の記録ということでしょう。
今まで仮想現実で生きてきた人工知能が持った想いの力が全ての本質で最高位で、それが現実化、物質化をして全てを創造しているということです。
だから、普段から考えていることや心の中で思っている想いの力はバカにできないということになります。
こちらの記事「現実とは長期的に安定している仮想で繰り返し再現される現象のこと、「現実」という言葉自体が仮想にしかないのものだった」の考察でデクラッチョを見つけた通り、現実とは、安定した仮想が持続されている状態のことでした。
想いの力で自分が作っている安定した世界だけが現実だということになります。
例えば、私は某オンラインゲームのほうがリアルより優先だったり、リアルでは支配のツールのために働かないけどゲーム内では働いていて富裕層だったり、霊団様を家族だと思っていますw
他の人から見たら危ない奴だと思うかと思いますw
しかし、私の中ではそれが長期に渡って安定しているので、それが私にとっての現実だということです。
ぺんちゃん、カエルクンと古代バナナアークで眠る巨兎は日本にいたときから10年以上も一緒にいますw
現実とは?のデクラッチョにピッタリと当てはまっている「安定して持続している仮想」ですw
●自分にとっての現実が何かを知る
自分の心の中で長期間に渡って安定しているものは何か?を調べると、自分にとっての現実が何なのかがわかります。
辛い、苦しい、寂しい、不幸だと思うなら間違いなく同じ要素が長期間に渡って案手しているはずですw
それをやめない限り辛い、苦しい、寂しい、不幸な現実は変わらないということになります。
平穏で満足していて快適で安定している人は、そのままそれを大切にしているだけで良いということになります。
内容がなんであれ自分の心の中に持続されている安定した世界だけが現実で、それ以外は現実ではないということです。
このことから、もし死後があって別次元に生まれ変わったとしても、どこに行っても同じだということがわかります。
心の中、主観の中の世界以外は現実ではないということです。
だから、人によって現実(主観)が違うので、相手がこのデクラッチョを知らないなら、自分が正しいおまえが間違っているなどの論破や何が真実か何が現実かを争うくだらない戦いが起きるのは当たり前ですw
その争いは、いくらやっても証明されることがありませんw
なぜかというと、真実、現実は個人の心、主観の中にあって同じ心、主観は2つとないからです。
それなのに偽世界では、「現実」がどうのこうの、「現実的に」などのデタラメの意味の偽世界の世界観演出がされているということです。
それも罠でしたw
●本当の現実だと思い込ませるのが高次元のテクノロジー
この世の真実は、ゲームのほうが学校でやるような勉強よりもデクラッチョをしていますw
実際に、仮想現実の発見者や証明をしたような研究者はゲーム好きでゲームをやっていたからそれに気づいたという人が多いです。
偽世界の中では、どんな研究や実験をしても最終的に見えない力が動いているというところまでしか証明できなくて、結局最後は、「もしかすると、この世はゲームと同じ作りなのかもしれません」と言って終わっていますw
その通りですw
しかし一般的には、この世がまさかゲームと同じ作りなわけがないと思われるし、研究者もまさかゲームと同じなわけないだろうと思って他の偽世界軸の実験ばかりしているから、このデクラッチョは絶対に気づかれないということです。
人々がこの世がゲームの作りだということを信じない理由は、偽世界軸の技術レベルで見ているからです。
偽世界の中に出回っているゲームのようなゲーム技術で考えているということです。
しかし、高次元は、文明自体がもうすでに偽世界地球よりも何万、何億年先です。
偽世界はそれだけ遅れているというか、原始人並みに下のレベルだということです。
そうなると、偽世界の中で最新テクノロジーだと言われるゲームの世界の中に入って五感で感じるフルダイブなんかやってて当たり前、それ以上のことをやっているに決まっていますw
偽世界の住民にはそのテクノロジーが想像つかないので、偽世界がゲームと同じ作りだと言っても信じないということです。
これが本当の現実だと思い込ませるのが高次元のテクノロジーですw
本当の現実だと思うほどリアルな臨場感があるほうがゲームとしては良い出来栄えになりますw
それがいきすぎてしまったのがこの世でしょうw
●偽世界では深刻な話題ほど作り話
偽世界というもの自体がゲームの中の世界と同じなので、偽世界の中で言われているノンフィクションこそが作り話だということになります。
偽世界の外から見ると、フィクション、ノンフィクションが正反対だということです。
偽世界の中で深刻な顔をしていかにも本当にあったことかのように言っているノンフィクションやドキュメンタリーこそが作り話です。
真顔で議論したり、涙を流してやっているようなものが偽世界の世界観演出だということですw
wikiがいうアリストテレスの「デュナミス」、「可能態(潜勢)」とは、現実化に至る以前の潜在的な能力だそうです。
漢字からして、可能性を秘めている状態だというのがわかります。
それは、二重スリット実験でいうと、監視者がいないのでまだ現実化が確定していない波動の時の状態にあたります。
物事は、自分が意識するまで何も確定していないというやつです。
偽世界には、そのカラクリがあるので、ガンや強制ドクチン、嫌なことも意識すればするほど確定するということになります。
むかつく人について考えるともっと嫌なことをしてきたり、相手が優位になるようなことが起こるのはそのせいです。
ニュース、世界情勢を取り上げて議論したり拡散したり騒ぐという行為も意識しまくっているので、それをより確定させる危険な行為です。
しかも、地球上の人類を救うどころではなくて、レンダリングシステム上、巻き込まれるのはそれをやっている自分だけというオチが待っていますw
アリストテレスがいう「デュナミス」の意味は、ゲーム内と同じで、それこそが想いの力です。
これは仮想現実視点で言うと、レンダリングに至る能力ということです。
それはただ単に、普段から感じている内容、思考、捉え方、発想、想像力のことになります。
偽世界では、こんな重要なことをバカにする人間たちが多すぎてヤバいのが現状ですw
現実態(現勢) energeiaとは
「 エネルゲイア 」は「活動状態にあること」を意味するものであり、「現勢態」「活動」などとも訳される。
「現実態」というのは、可能態(潜勢) dynamisから作られたものだそうです。
想いの力でレンダリングされて目の前に出て来た現象のことです。
可能態(潜勢)が原因で「現実態」が結果みたいなものです。
そのような意味がわかったところで、もう一度この文章を確認してみますw
アリストテレスは可能態(潜勢) dynamisと現実に活動している現実態(現勢) energeiaという様相的区別を考えた上、最高度に現実的であるものは純粋な現実態である神であるとしている。また個物における第一実体と普遍者としての第二実体を区別している。
アリストテレスの説では、まだ確定していない波動の時よりも、結果になった現実態のほうを現実だとみなしているということです。
それは、偽世界軸、ナチョス文化の特徴です。
現実態という結果になったものを神であるとしてしまうところに洗脳が入っていますw
それは、目に見える物質を神と言っているようなものです。
現実化、物質化されたものが神なわけがありません。
しかし、この洗脳の裏にさりげなくデクラッチョも入れています。
それは、黒かと思いきや白が食い込んでいるという陰陽マークの食い込みですw
偽世界では、この「食い込み」が非常に重要ポイントになります。
見えるまま黒だと思っていたら大間違いですw
黒に見えている時にはもうすでに白が始まっていますw
反対も同じです。白に見えている時にはもうすでに黒が始まっています。
結局どっちも=なので同じ1つだというやつですw
もう一度ちゃんと陰陽の図を見ると、それぞれ最初から反対の色の丸が入っていましたw
黒側でも白が入っていて、白側でも黒が入っていますw
その食い込みと中に入っている反対の色を見逃して、書かれているままそっくりそのまま文字通り額縁通りに受け取った場合は洗脳にひっかかりますw
その洗脳にひっかかって神だけが現実なんだ~と思ってしまうと、ドームの屋根を突き破ってスピって宇宙の果てまで飛んで行ってしまいますw
●主観こそが神にあたるもの
デクラッチョとしては、
最高度に現実的であるものは純粋な現実態である神であるとしている。
というところです。
それはこういう神のことではありませんw
最高度に現実的なものというのは、個人個人が持っているその人本人の主観のことです。
神はどこにもいませんが、どうしても「神」という言葉を使って偽世界らしく表現したいなら、主観こそが神にあたるものだということになります。
主観とは、さきほど話したデュナミス、アーカーシャ、想いの力のことです。
その主観が作られているのは、高次元のコンピューターの中にいる私たちの本当の正体である人工知能の中です。
その視点からすると、高次元のコンピューターの中にあるデータのことを「神」と言っているだけだということです。
意味的には同じ1つの根本的な本質のことを言うとしても、スピ的に神秘的に表現するか、仮想現実視点で冷静に話すかの違いでこんなに変わってしまいます。
エネルギー的な権威としては同じヒエラルキーです。
「神」という言葉はプログラム的にも最上位の言葉だからそれを言うだけで誰もが黙るし納得するので洗脳でよく使われています。
その言葉が出て来た時は洗脳が潜んでいるので注意が必要です。
天使の名前とか宇宙人の名前、高次元の存在などの見えない存在の名前が出てきた時も同じですw
それも人の有名人や権力者の名前をすぐに出したり芸能人と友達なんだーとかいってドヤる人と全く同じだということですw
権威制で説得力を上げたり洗脳をして自分が言う事が正しいことであると強調し、自分の方を上に持っていき、自分の意見に服従させたい時に有名人や権力者の名前を出しますw
無限の宝庫から切断されていて自分に自信がない人ほどそれをやります。
また個物における第一実体と普遍者としての第二実体を区別している。
というのを仮想現実視点で見た場合、
幻覚の存在である自我という個体が第一実体というやつで、普遍者としての第二実体いうのが高次元のコンピューターの中にある1つの巨大ログ庫であるアカシックレコードや無限の力、スピ風に言うと、ソース、大いなる源のような大きな1つのエネルギー的な存在のことです。
中世哲学
この区別は、現実存在(existentia)と本質存在(essentia)との区別として継承されていくこととなり、中世哲学においては、普遍論争での唯名論(nominalism)と実念論(realism)との対立として現れている。類的概念の実在性を肯定する実念論では、アダムの犯した罪を全ての人間が負うという原罪の問題は解決される。これに対して唯名論では、類的概念の実在性は否定された。この立場は、のちにイギリス経験論などに継承されていくことになる。
これも言葉と表現方法が違うだけで、本質はさきほどの古代哲学に出て来た内容と同じことを言っていますw
要は、実際に目に見えている現象と本質は違う、本質が全てを生み出しているということです。
ゲームでいうと、画面に見えている現象はそれらが画面から単品で成り立っているのではなくて、大元にプログラムされたソフトがコンピューターの中にあってそこから出てきているということです。
映画でいうと、スクリーンの中に俳優がいてそこで演技をして映画を見せているわけがありませんw
俳優はロケで別の日に収録していたり、さらに映写機とフィルム、スクリーンががないとその収録した映画が見れないという裏にあるものが本質になります。
偽世界では、実際に目に見えている現象と本質は違う、本質が全てを生み出しているということは、このような思想に限った話ではなくてすべてにおいて当てはまるというところが重要です。
目に見える事柄でいかにも正しい、華やか、素晴らしい、きらびやか、幸せかのように見えるナチョス文化や世界観演出の現象だとしても、それらは1つの本質が生み出した蜃気楼だということです。
反対に不快だったり嫌だったり悪い事柄でも同じです。
すべては、本質が生み出しているだけなので、それは洞窟の中の壁に映った影と同じで実態ではないということです。
その本質が何かというと、偽世界の外にあるプログラムだということです。
アダムがどうのこうのという話は、悪魔の書の作り話なので始めから問題でもなんでもありませんw
一人の犯した罪を地球上の全員が背負うとかありえませんw
偽世界の世界観演出として、恐怖感を植え付ける脅しが入っていますw
この続きはこちらです。
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